徳目とは
「人徳がある」とか「徳を積む」などで使われる「徳」。
何となく知ってるけど、意味を説明するとなると難しかったりします。
徳とは…
1.精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳。
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2.めぐみ。恩恵。神仏などの加護。
3.得 (とく)
4.富。財産。
5.生まれつき備わった能力・性質。天性。
辞書で調べると、色んな意味があることを改めて知りましたが、ここでは「1」の意味合いとなります。
その「徳」をジャンルごとで分類したものが「徳目(とくもく)」です。
「武士道の徳目」とは、こいう徳を身につけられるように頑張っていこう!というような教えです。
武士道には主に7つの徳目がありますが、これを明確に定義したのは新渡戸稲造の著書『武士道』です。
それまでの時代に明確な定義はなかったようなので、暗黙に共有された認識のように存在していたのではないかと思います。
ここで取り上げる徳目に関しては、新渡戸稲造の『武士道』の解釈を中心としながら、現代風解釈なども織り交ぜて説明したいと思います。
義
正しいこと、正しい行い、正しい行動など。
武士道第一の徳目とされるのが「義」です。
派生語として、正義、道義、恩義、仁義、律儀、忠義、義理、義憤、義侠など、たくさんの言葉が今でも残っている事からも、どれだけ日本人が大切にしてきたかが感じ取れます。
全ての徳目の原点であり、全ての徳目は「義」という前提があって初めてその意味を成します。
正しい事を貫くためには「損得では判断しない」という事が重要になるため、打算を嫌い「損得勘定」も良しとはしません。
その根底には、生死をかけた戦場で損得を考えてしまったら、生きてる方が得となり、逃げ出したり、臆病になって逆に危険な目に合うという意識もあったようです。
今の時代でも、スポーツなどの勝負の世界で、勝敗よりフェアプレーを重視するというような日本人の正義感は間違いなくこの「義」の教えを受け継いでいます。
勇
正しい事(義)を、実行すること。
文字通り「勇気」を意味しますが、その前提にはやはり「義」が必要です。
正しい事のために、ここぞという場面で奮い立たせる「大義の勇」こそが武士道の求める「勇」であり、ただ血気にはやって危険を冒すだけのような行動は「匹夫の勇」や「蛮勇」、そして「犬死」として明確に区別し、「勇」とは認めていません。
むしろ恐れ知らずではなく、恐れを知った上で、それでも行動を起こすことこそが本物の「勇」ということであり、心だけ湧き立たせても意味がなく、実際に行動を起こして初めて認められるものです。
また、「潔く死ぬことが武士の美学」かのようなイメージが強いですが、恥をさらしてでも生き延びる方が正しいと判断すれば、どこまで逃げてでも生き残ろうとする、これもまた「勇」になります。
どう行動したか?よりもその動機、つまり「義」があるかどうかが重要という事になります。
今時は大きな勇気が試されるほどの機会は少ないかも知れませんが、小さな勇気を必要とする場面は沢山あると思います。できるできないでは戸惑ってしまう場面でも、正しい事だからこそやるんだ!と信じる事ができたなら、一つの自信に繋がる事もあるはずです。大胆な行動ができるかできないか?なんかじゃなく、本当に大切な場面で行動を起こせるかどうかです。
仁
優しさ、思いやり、情け。
子供の頃に「弱い者いじめをしないこと!」「弱い人を助けてあげなさい!」と教わったのなら、それがこの「仁」の教えです。
武士道の第一の徳目が「義」ならば、儒教で一番とされるのがこの「仁」です。
「仁は人(じん)なり」として、逆を返せば「仁がなければ人ではない」というほど重要視されています。
ほとんど使われなくなりましたが、「あの人」の敬称として「あの御仁」という言ったりして「仁=人」という使い方は日本にもあり、人間にとってどれほど大切な要素と考えられてきたかが分かります。
正しい事を意味するのが「義」ですが、そもそも何が正しいのかを判断する際には、必ず「仁」の存在がなくてはならないと考えられており、「仁」は「義」の土台にあるとも言えます。
ここを忘れてしまうと、行き過ぎた正義感が人を攻撃するようになる可能性があるということでしょう。
また、見たままの優しさだけではなく、切腹時の介錯(苦しまないよう首を斬る役)や、戦場においては死にかけてる相手にトドメを刺してやるなど、激しい一面も持っています。
こうした行動を「武士の情け」として、敗者や弱者に対して最後に与える恩情として、サムライ達の美学の1つでもありました。
特に相撲などはそうですが、例え勝ったとしても敗者へ配慮して喜んだり騒いだりすることを良しとしないという風習があります。これもまた「武士の情け」ですが、日本人独特の美意識と言えます。また、優しさと甘さの区別がついていない人が決して少なくないですが、優しさとは相手への思いやりであり、甘さとは本当の意味で相手を思わない表面上の優しさの事、「仁」という徳目を本気で考えていくと、こういった区別も明確になると思っています。
礼
相手に対する思いを行動で示す「型」。
武士道の徳目のほとんどが心構えなど精神的なものであるのに対して、唯一この「礼」は行動の型を表す教えです。
今でいう礼儀作法、つまりマナーと同じと思っていいと思います。
そもそも「小笠原流礼法」など、現代にも残る礼儀作法は「武家礼法」として発展してきたものであり、程度の違いはあれど、私たちは間違いなく武士のお作法を学んでるという事になります。
ただ、礼儀作法やマナーを、自分が恥をかかないための物と思っている人が多いように感じますが、本来は相手に対する思いを特定の行動で示す事です。
例えば、日本人独特の礼儀でもある「お辞儀」というのは、急所である頭頂部や後頭部を相手に見せる事で「敵意がない」という思いを表してます。
今はそんな危険な時代じゃないので、敵意がないと言うことは、「信頼している」とか、「これから親しくなりましょう」とか、そういう意味合いになるでしょう。
相手に対する思いを行動で示す「型」だからこそ、そこに「思い」がなければ「失礼」になるという事です。
もし最初は「思い」がなかったとしても、何度も「型」を反復していくうちに、自然と心が宿るようになるという、修行のような境地も「礼」の特徴でもあります。
スポーツの世界に例えるなら基礎練習が正にそれですが、単純な動作を体が覚えこむまで何度も繰り返し練習する事で、本物の力を身につけると同時に心も磨かれていきます。これこそ「礼」の教えと言えます。武士道の徳目の中で、この「礼」が現代まで最も意味や解釈が変わらずに受け継がれてきており、私達は子供の頃だけでなく、大人になっても様々な場面で当たり前のように出会い、学び続けています。
誠
有言実行、約束を守る。
「誠」とは「言う」を「成す」と書く通り、有言実行を意味します。
そこから「嘘をつかない」、「正直」である、だから「誠実」と考えいていくと現代の感覚に近づけるかと思います。
子供の頃に「嘘をついちゃダメ!」とほとんどの人が教わったと思いますが、それはこの「誠」の教えです。
ただ「嘘をつかない」だけなら、約束しなければいいとも言えますが、武士道ではあくまでも「有言実行」、今で言う「正直」や「誠実」とははるかに重みが違います。
「武士に二言はない」という言葉がある通り、一度言った事は死んでも守る!として、サムライ達は自分の発言に命をかけました。
そんな彼らの言葉は絶対的に信用できるものとして、証文、いわゆる契約書などは不要、口約束で十分と考えられており、実際にそれで通用していたようです。
こういった事から安易な発言は避け、寡黙であることを良しとする部分があったというのも理解できます。
自動販売機や野菜などの無人販売所などが成立するのは、世界でも日本くらいと言われています。そこに現金や商品があるとしても、誰に見られてないとしても、お金を盗んだりタダで持ち帰ったりする人が極めて少ないのが日本人です。もはや契約書どころか言葉すらもないまま契約を成立させてますが、この正直さこそ「誠」の教えです。ただし、「借金をしたら何が何でも返さなければならない」という思いから犯罪に走ったり、保険金で返済しようと自殺を選択するなど、約束の重みが人生や命に関わるほどの影響を持ってしまうのは、悪い意味で「誠」の影響だと思います。「誠」はいかにもサムライらしい美徳ですが、命を何より優先すべき今の時代ならば、できなかった時にどう自分を許せるか?という寛容さを同時に持ち合わせる必要があるでしょう。
名誉
「名」を尊ぶ、「名」を誇りに思う。「名」を汚さない、自分に恥じない生き方をする。
子供の頃、「人前で恥ずかしい事しないで!」「人に笑われるぞ!」というような教えを受けたなら、それは武士道の「名誉」に当たります。
「富や名誉」というような表現があるので、何か大きな事を成し遂げた人達だけの特別な物だと思ってしまいがちですが、金勘定を良しとしない武士道ではそういう考え方はしていません。
「名誉」とは、自分の「名」に恥じない生き方をすること。
ただそれだけです。
仮に有名になったとしても、それが悪名であったなら「名誉」とはなりません。
そのためには、何が恥かを知る事が全ての始まりとなります。
恥を知る心の事を「廉恥心(れんちしん)」と言い、武士の家では小さい頃から最優先教育として教え込まれました。
正しい事(義)のために行動を起こす事(勇)ができなければ「恥」と感じるなど、その他徳目を守ろうとする動機になり得る存在でもあります。
現代で「名誉」と言えば「富や地位」と同列に考えてしまう人が多いんじゃないでしょうか?これはつまり「第三者からの評価が必要になる」という事を意味しますが、実際の「名誉」とは第三者の存在を必要としません。自分で自分を誇れるかどうか?が全てです。「日本人は恥の文化」と今でも言われますが、それは間違いなくこの「名誉」から来ています。それが世界一民度が高いと言われる日本人の民度の原点にあると言ってもいいでしょう。行動の制御が必要な時に、この「恥」と思う心こそが、最強のブレーキになっています。
忠義
真心を尽くして仕える。
仕えるという意味がある事からも分かるように、国や幕府、お家に仕える武士階級だけの考え方であり、武士道の徳目の中では最も遅く、戦が少なくなってきた江戸の頃から広まってきたという点からも、国や幕府側に都合のいい「政治理念」として広められた可能性はあるかと思います。
ただし、本来的な意味は、主君のために死ぬ事を美学とするような盲信的な物ではなく、むしろ主君が間違った方向へ進もうとするなら、命をかけてお諫めする事こそ本物の「忠義」と考えられてきました。
その武士階級だけだったはずの考え方を一般大衆にまで広めたのが、軍国主義教育という事になるでしょう。
当初はそんな意図はなかったと信じますが、戦争へと向かっていく中で、この教育は洗脳となり、最終的に「神風」や「回天」と言った特攻作戦を実現させる精神的土台になった事は否定できないと思います。
結果として、この「忠義」が武士道を危険思想と思わせる要因になってしまいました。
忠義とか忠義心とか、言葉は知っていても、もはや使われなくなりました。今の時代に最も縁遠い徳目になったかのように見えますが、本来は自分の属する場所に対する愛情や思慕の情のような感覚が土台にあります。そういう意味では、愛国心や地元愛のような、誰に教わったわけでもないのに、自然発生的に持っているものが「忠義」の原点にあると思います。
世界から称賛される日本人
ここまで武士道の7つの徳目について解説してきましたが、最後に実際に私たちも目にしてきた事例から、現代に残る武士道を感じ取ってもらえればと思います。
そこに武士道がある
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、日本中だけでなく世界中が衝撃を受けましたが、更にその後世界中を驚かせたのが、震災後の日本人の行動でした。
その行動の根底には間違いなく武士道の心があります。
家を失い絶望的な状況になっても冷静であり続ける
暴動や略奪をしない
食料配給では列を作り順番を守る
老人や子供を優先する
東日本大震災が最も大きく報じられましたが、それまでもそれ以降も、災害などの絶望的な状況において、日本人の行動は変わりません。
もちろん火事場泥棒のような一部の人間がいるのは悲しい事ですが、圧倒的多数の日本人が冷静に、周りを思いやりながら、きちんと行動ができる。
その心を支えているのは、自覚なき武士道という事です。
過去に、武士道が危険な思想に走ってしまったことは事実ですが、今もなお私たちの美徳になっている事もまた事実です。
全部ではなくて、良い部分は良いと目を逸らさずに、しっかり向き合っていく事が必要だと私は思っています。