「武士道とは死ぬこと」なんて言ってない!?「葉隠」の伝えたかった心とは

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武士道とは死ぬ事ではない!?

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉をご存じの方も多いでしょう。

武士道のバイブルとも言える「葉隠(はがくれ)」の冒頭の一節です。

こういう言葉のインパクトと、特攻玉砕や自決などのイメージとが重なって、武士道は危険な思想だという印象を与えてしまう事が多々あります。

しかしこのこの言葉自体が「葉隠」の冒頭の一節の中の、ごく一部分だけの切り取りであって、本来的な意味とはズレてしまっています。

まずは本来の意味を正しく知りましょう!

「葉隠」の真意とは

「葉隠」とは、佐賀鍋島藩士、山本常朝(やまもとじょうちょう)が、口述で語った武士の心得を、同藩士の田代陣基(たしろつらもと)が書き留めた全11巻の書物で、武士道のバイブルともいえるものです。

武士道のバイブルと言えば、明治の頃に書かれた新渡戸稲造の『武士道』が最もメジャーですが、「葉隠」はそれよりも前の江戸時代中期に書かれていながら、藩政批判などが内容に含まれたせいか、禁書とされ、広く読まれるまでに時間を要したようです。

しかし内容的には、武士道の全体像と日本人の民族性を世界に向けて発信した新渡戸稲造の『武士道』よりも、武士の心得をそのまま語っている「葉隠」のほうが、圧倒的に分かりやすく、現代では、サラリーマン心得のようなビジネス書にもたくさん活用されています。

新渡戸稲造の『武士道』が、その概論を語った教科書だとしたら、「葉隠」は、細かな心構えやノウハウをまとめたマニュアルとでもいったイメージが分かり易いかと思います。

その「葉隠」の冒頭の一節に「武士道とは死ぬこととみつけたり」が出てくるわけですが、ちゃんとした意味が伝わるよう、もう少し詳しく抜粋して解説したいと思います。

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方(かみがた)風の打ち上がりたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり。我人、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若(も)し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身(しにみ)になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕果すべきなり。

葉隠-Wikipedia
意訳

武士道とは、死ぬことだと悟った。二つに一つの決断を迫られるような場面では、より死に近しいほうを選んでおけば話は早い。細かい事に煩わされず、腹を括って取り組めば良い。目的が果たせなければ犬死だなどというのは、関西風の思い上がった武士道だ。生か死かの決断の場面で、思い通りの結果が得られるかどうかなど分からない。人は生きる方が好きだ。きっと好きな方を選んで後から理屈をつけるだろう。しかし目的を果たせずに生き残っているとしたら腰抜けになる。この境目が難しい。もし目的を果たせずに死ぬことになれば犬死の気違いということになる。でもそれは恥ではない。これこそがれっきとした武士道だと言える。毎朝毎夕、死の覚悟を新たにして、常に死んだつもりでいる時は、武士道から自由の境地を得て、生涯失敗することなく、職務を全うできるだろう。

個人的な意訳ですので、精度に関してはお許しください。

冒頭の一文だけじゃなく、ここまでの一節を読むと印象が変わってくるのではないでしょうか?

更に噛み砕いていきます。

いきなり「死ぬこと」から始まっていますが、「生きる方が好き」だとも言い切っています。

しかし、生きる方を選択すると、本来の目的より生きる方を優先したいという迷いが生まれ、その迷いをごまかすために色んな言い訳を考えるようになる。

その結果目的も果たせずに、ただ生き残ってるだけになってしまったらそれは腰抜けになる。

しかし死を覚悟してしまえば、他に何の迷いもなく目的だけに取り組める、その結果失敗して犬死にでも、それは恥にはならない。

この「腰抜け」と「犬死に」の境目が確かに「難しい」が、「死んだつもり」になることで生きたい!という迷いから解放されれば、全てが上手くいくようになる・・・

簡単に言ってしまえば、「迷いが生まれるから失敗するのであって、死んだつもりになれば迷う事も恐れる事もなくなって、何だって出来るよ!」というイメージでいいと思います。

「葉隠」の言う武士道とは「死ぬこと」ではなく、心の中で先に「死んでおくこと」。

それは「一切の迷いを捨て去る」という事です。

「死に急がせる」かのような意味合いとは大きく違いますよね。

死を意識する生き方

武士道が死を美化しようとしている部分は確かにあると思います。

ただしそれは、命あるものは必ず死ぬという意味からであり、私たちの考える死と全く同じ意味としてです。

ただ、サムライ達にとってそれはとても身近な事でした。

戦場に出ればいつ死んでもおかしくない状況ですから、生き残るという事にこだわり、臆病になってしまうと、却って危険な目に陥る事があります。

そういう意味からも、あらかじめ「死んでおく」ことは必要な覚悟とも言えます。

桜の花を好むのも、仮に短く儚い人生で終わるとしても、美しく花を咲かせたいという思いからです。

つまり「いつ終わるとしても後悔しない人生を生きたい!」という事です。

人生100年時代を生きる私たちにとって、死は身近な物ではなくなりました。

それでも死を美化したい気持ちは同じではないでしょうか?

余命宣告を受けた途端に人生観が変わる人は少なくありません。

死を自覚することは、生を自覚することになります。

死に様とは生き様のことです。

もし、死が残酷で不幸なものでしかないのなら、生は何のためにあるのか分からなくなります。

明日という日がくるかどうか分からないのは、サムライ達も私たちも同じですが、私たちには中々その自覚が持てません。

今、迷っている事、悩んでいる事、不安な事、それはもし余命が分かっていたとしても優先すべきことでしょうか?

もし死ぬ気で取り組んだら!?いっそ、もう死んだ気になったら!?

今とは違う決断で、全く違う行動を起こすかもしれません。

まとめ

「一億玉砕」とまで言われた太平洋戦争時、特攻や玉砕、自決の場面において「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉が実際に使われた事が、この言葉のイメージを間違って印象付ける事になりました。

軍国主義教育の中で、武士道の思想は洗脳の道具のように使われ、捻じ曲げられて現代に伝わってしまった部分があり、それが残念でなりません。

今もなお、武士道の教えによって躾や家庭内教育が成り立っている事から考えても、武士道はもっと日常的で身近な存在です。

本来の武士道の意味が一人でも多くの人に伝わって欲しいと願っています。

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