汚さじと思ふ法度のともすれば世渡るはしとなるぞ悲しき
慈鎮和尚
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和して同ぜず
詠み人は慈鎮和尚ですが、千利休の弟子、山上宗二がそらんじていた歌と言われています。
旧来の型から逸脱していく利休に対し、あくまでも伝統に固執し続けた茶人、山上宗二。
頑固一徹を貫き、最後は秀吉とまで対立し打ち首にされてしまいますが、その宗二でさえ「どこかで世渡りしている」と嘆いていたようです。
美意識とか、自分なりの美学とかこだわりとか、誰しも少なからず持っていると思います。
それを「ただただ貫く」ということは決して簡単なことではありません。
特に「和」を重んじる私たち日本人にとって、「世渡り」とは、避けては通れない部分でもあります。
「我が道を行く!」、「人の目など気にしない!」と決めたとしても、「どこかで誰かに合わせようとしている自分」に気付くことは少なくないのではないでしょうか。
周りとの調和を保ちながら、それでも自分を貫く…
「和して同ぜず」とは、一見とても難しいバランスのように感じます。
しかし実際には、行ったり来たりのバランスを取る必要などなく、場面場面で周りに合わせながらも、決してブレない自分を持ち続けるという一点こそが重要だと思います。
確固たる自分があるからこそ周りに合わせられるのであって、自分というものがなければ、周りに合わせることすらできないでしょう。
それはただ周りに飲みこまれているだけに過ぎないと思います。