恋死なん、後の煙にそれと知れ、つひにもらさぬ中の思ひは
葉隠より
忠義の本質
「葉隠」の中で山本常朝が武士道の「忠義」について語る時、この和歌を引用しています。
常朝は、武士の主君に対する思いを「忍ぶ恋」にたとえています。
勇猛な武士のイメージから、「恋心」というものは中々結びつかない気がしますが、片思いのような感覚だと思うと「忠義」というものが少し分かり易く感じられます。
命令には絶対服従のようなイメージが強いせいか、私たちは「忠義」という言葉を使うことがほとんどありません。
「主君に死ねと言われれば死ぬ」とか「主君が死ねば殉死する」という盲信的なイメージから、軍国主義から神風特攻へと向かわせるような狂信的なイメージなど、恐らく現代の私たちにとって、悪いイメージを持っている人のほうが多いのではないでしょうか?
ただ「忠義」本来の意味は…
というような意味合いになります。
むしろ、主君が間違った方向へ進もうとするなら、命をかけてお諫(いさ)めする事こそ「忠義」本来の意義であって、主君への盲信などは、媚びへつらいとして嫌われていたようです。
そういう視点を持ってみた上でこの和歌を読んでみると、「忠義」というものがほんの少し身近に感じられたりしませんか?
「好きな人のために」とか「愛する人のために」とか、時には「仲間のために」や「自分の属する組織のために」、そして「故郷のために」など、偶然か必然か、自分が属する世界や、その中にあるものを守りたいというような感覚は、誰にも少なからずあるものでしょう。
そういうもののために「何かしら役に立ちたい!」と思うこと。
絶対的主君とその家来という関係の中ではなく、もっと根本的な「愛」の中に本来の「忠義」はあるのだと思います。