承認欲求を自分で満たす!「名誉ある人生」の生き方

富士山
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「名誉ある人生」を生きる

「名誉ある人生を生きていますか?」と聞かれたらなんと答えますか?

「YES」と答えられる人は、ごく少数の一部の人に限られるのかもしれません。

そもそも「名誉」というものについて考えた事すらない人のほうが多数を占めるのではないでしょうか。

私達のイメージする「名誉」とは、何かしらすごい事を達成した結果、たくさんの人達から認められたり尊敬や賞賛といった高い評価が得られることを意味してます。

そしてそれほどの機会は、普通に生活していたらまずあり得ない、どこか違う世界の話に感じるのが普通でしょう。

しかし、本来の「名誉」の考え方はもっと身近で、日常的なものです。

その考え方は「武士道」を起源としています。

「武士道」のいう「名誉」とは、名を重んじ、自分に恥じない生き方をすること。

簡単に言えば、「自分が恥だと思う事はやらない!」という事です。

それは第三者の評価があるかないかは全く関係なく、自分で自分を評価できるかどうかが全てという事になります。

何かを成し遂げる必要も、たくさんの人から認められる必要もない、普通の人生でいいのです。

それは、誰もが今すぐ始める事ができるものです。

武士道の「名誉」を知り、あなたも今すぐ「名誉ある人生」を始めてみませんか?

名こそ惜しけれ

武士道の「名誉」を理解するためにまず大前提となるのが、武士達にとっての「名」の重みを知る事です。

「名こそ惜しけれ」とは平家物語の一節ですが、この言葉のように武士達は「名を惜しむ」、つまり、名を何よりも大切にしました。

時代劇などで目にしたことがあるかと思いますが、戦場での「名乗り」、「やあやあ我こそは、どこどこの国に生を受け、こういう役職にいた何の誰べえの息子で・・・」というように、生まれた国や役職、戦場での功績など、自分自身のものだけではなく、親兄弟や先祖の実績まで加えたりします。

逆を返せば、自分にも親兄弟にも何の実績もなかったなら、名乗る名すらないということを意味します。

武士にとっての「名」とは、単に個人を特定するためだけのものではなく、自分自身の全存在を表示するためのものであり、勝たねば得られないもの、つまり勝ち取るものだったということです。

ところが、現代の私たちにとっての名前は個人を特定するための記号的な役割しかなくなっています。

自分でつける事や自由に変える事が簡単ではないため、名付け親の心はこもっていても、自分の気持ちを込めることは難しいかもしれません。

それが、私たちが「名誉」という概念を身近に感じられなくなった要因かなと思ったりしますが、それでも「名=自分自身」として、犯罪などで悪名が知れ渡るような事は絶対避けたいと思うはずです。

武士達も、仮に名を上げる事が難しかったとしても、名を下げる事だけは絶対にないようにしたいと当然考えます。

そのために「自分に恥じない生き方」を目指すわけです。

恥を知る廉恥(れんち)の心

「自分に恥じない生き方」をするためには、何が恥か?を知る必要があります。

自分が恥ずかしいと思う事が、世間一般と大きくズレてしまっていたら、知らないうちに恥をかくことになりかねません。

恥を知る心の事を「廉恥心(れんちしん)」として、武士の家では幼少期からの最優先教育でもありました。

「人に笑われるぞ!」と言えば、武士の子供たちには絶大な効果があったようです。

私達も子供の頃に、「人前で恥ずかしい真似しないで!」というような小言をもらった事があるなら、「廉恥心」を教わっていたということですが、現代ではこの「廉恥心」という言葉自体がもはやなくなってしまっています。

この逆の恥知らずのことを「破廉恥(はれんち)」と言いますが、こちらは今もごく稀にTVドラマなどの台詞として耳にすることがあるかもしれません。

また世代によっては、永井豪先生の漫画「ハレンチ学園」の影響が強く、ちょっとエロい意味合いでの恥知らずという印象を持ってる人も意外といそうです…(笑)

話が逸れましたが、言葉が失われるとその概念も失われてしまうものですが、「日本人は恥の文化」と言われるように、私達はこの「名誉」の精神を今でも守り続けています。

名誉とは自分だけのもの

武士達にとって命より大切な「名誉」。

大切さが思い余って「名誉」を傷つけられればいきなり斬りかかる!というような行きすぎもあったようです。

そういう事のないよう、「寛容さ」や「忍耐」もサムライ達の美徳として身に付けるべき要素と考えられていましたが、そもそも第三者の評価を必要としないのが「名誉」の本質です。

それは第三者からの良い評価を必要としないだけではなく、悪い評価を受けても関係ない!という事でもあります。

名誉とは「自分に恥じない生き方」をすること。

「人に恥じない生き方」ではないのです。

自分自身が「自分に恥じない生き方」ができていると信じる事ができれば、他人からの評価など一切必要とせず、また他人が傷つけられたり汚したりすることもできない、確固たる自分で在り続ける事ができるようになるということでしょう。

名誉と自己承認

第三者からの評価を必要としない武士道の「名誉」は、心理学で言う承認欲求の「自己承認」とほとんど同じところを目指しているように見えます。

承認欲求と言えば「人から認められたい」という欲求だという事は誰もが知ってるかと思いますが、他者から認められる「他者承認」と、自分で自分を認める「自己承認」という二つの側面があります。

SNSでのいいね!やフォロワー集めで、承認欲求を満たそうと必死になってる人は「他者承認」を得ようとしているということですが、ではどれだけのいいね!やフォロワー数になれば承認欲求が満たされるか?と言えば、そんな基準は存在せず、結局は自分が満足するまで終わりがないという事になります。

いくら「他者承認」を得られたとしても、結局「自己承認」がなければ、本当の意味での満足感を得る事は難しいという事です。

ただこの「自己承認」を苦手とする人が意外と多く、私自身もその中の一人でした。

自分を認めるに当たって、何ができたのか?というクリア条件を付けたくなり、全く届かないような無理な条件を設定したり、フォロワー数が足りないからダメ!など、自己承認のために他者承認の基準を設定したり、まるで自分から承認を遠ざけてるような状態になってしまう事がよくあります。

もちろん目的を持ち、達成を目指す事は大切ですが、その結果の善し悪しによって、認めるかどうかを決めるという事自体が、最初から部分否定しているような状態とも言えます。

自分を認めるとは、良いも悪いも含めて、在るがままの状態を受け入れる事ができるかどうか?という事です。

当然、何でもかんでも認められない場合もあります。

例えば犯罪であったり、人を傷つけたりしたのであれば、深く反省し、すぐに自分を許すべきではない時もあります。

そういうごく一部の否定的要素さえなければ、それは「自分に恥じない生き方」ができているということです。

そんな「名誉ある人生」を生きている自分を、丸ごと認めてしまう事が「自己承認」へとつがなります。

何かを成し遂げる必要も、人から賞賛を受ける必要もありません。

いやむしろ、自分の名を汚すことなく生きているという事は、もっと賞賛を受けても良いことなのかもしれません。

あなたは既に「名誉ある人生」を生きているのではありませんか?

「自分に恥じない生き方」ができているか、時には改まって見つめ直してみてはいかがでしょうか。

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