忠臣は二君に仕えず
本当の忠義とは
【忠義】という言葉は、今はあまり使われることがありません。
盲信や盲従、絶対的服従と言ったイメージが強いせいか、あまり肯定的に捉えている人自体が少ないようにも感じます。
しかし、武士道における【忠義】とは、絶対的服従や媚へつらいを恥とし、時には命を懸けてでも主君をお諫めするということにこそ、その本質があると考えるものです。
主君と言っても一人の人間。
更に血統を重んじる時代ですから、暴君や暗君だったとしても主君は主君です。
そんな奴に忠誠を誓えるはずがないのは今も昔も変わりません。
それでもなぜ【忠義】を貫けるのかと言えば、主君という一個人に仕えているわけではなく、仕えているのはその「お家」、つまりは天下だと思っていたからでしょう。
つまり主君と言う「私」の存在ではなく、お家という「公」に仕えているからこそ、時には命がけで主君をお諫めすることができ、更には「二君に仕えず」ということができるのです。
今や【忠義】という言葉を使わなくなった私たちですが…
「生まれ育った故郷に恩返しがしたい!」
「今仕事をさせてもらっている街に何か貢献したい!」
そんな思いを抱く人は少なくないでしょう。
実はそういった思いこそが【忠義】の始まりです。
「何らかのご縁で召し抱えられたお家のために尽くしたい!」という思いと、「たまたま生まれ育った街に恩返しがしたい!」という思い。
生まれた故郷が変えられない様に、仕えた主君は決して変えたくないからこそ「二君に仕えず」なのです。
「私」という枠を超えて「公」のためにと思うことが【忠義】の始まりです。
そして本当の意味で「良くしたい!」と思うからこそ、ただ闇雲に尽くすのではなく、時には苦言を吐き、時には反発することもできるのです。