そもそも意見と云ふは、
葉隠より
先づその人の請け容るるか、請け容れぬかの気をよく見分け、
入魂(じっこん)になり、此方の言葉を平素信用せらるる様に仕なし候てより、
さて次第に好きの道などより引き入れ、
云ひ様種々に工夫し、時節を考へ、
或は文通、或は雑談の末などの折に、
我が身の上の悪事を申し出し、云はずして思ひ当たる様にか、
又は先づよき処を褒め立て、気を引き立つ工夫を砕き、
渇く時水を飲む様に請合わせて、疵を直すが意見なり。
今も昔も言い方には気を付けてる?
長文ですが、人に意見をして欠点を正すということに対して、ここまでの心配りを考えています。
「言いにくいことを敢えて言う」ということも一つの優しさですが、耳が痛いような言葉は誰しも聞きたくありません。
届きにくい言葉ではやはり相手を正すということは中々難しく、「心を鬼にして言ってあげたのに聞き入れてもらえなかった…」というところで終わってしまうことが多いものです。
「相手を正す」ということが目的であったはずが、いつの間にか「言いにくいことをどうにか伝えた」ということで自分の目的は終えたという気持ちになっている…
それではただの自己満足にしか過ぎません。
結局のところ、相手が自ら気付かない限りはどうにもならないわけですが、気付かせようと思うのであれば、言いにくいことをズバリということも必要ですが、色んな方法で気づきにつながるように工夫することも大切です。
叱り方や注意の仕方で悩んでいる人はたくさんいると思います。
そういう方法を記した本は現代にもたくさんありますが、「葉隠」が書かれたのはおよそ300年前…
300年経っても、私たちの悩みはあまり変わっていないようです。