知識より常識、学問より実行
新渡戸稲造
日本人としての核
どれだけたくさんの知識を持っていることより、人として当たり前のことができているのか、理解だけではなく実行しているのかを問う言葉です。
「常識」とは何なのか?
当たり前に使う言葉ながら、説明には困ります。
辞書では「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」とされています。
しかし、「一般の社会人に共通のもの」というのは、時代と共に変化していきます。
当然、どこかに明記されるようなものでもないため、どこかで誰かから教わらない限り、身に付かないものとも言えます。
私たち日本人にとっての常識の原点は、恐らく武士道にあったと思います。
それを武士道だとは知らなくても、私たち日本人はその教えを受け、そして伝えてきたのです。
特定の宗教を持つ国ならば、その宗教教育の中で道徳や常識と言った、人として生きていく道を学びますが、日本には特定の宗教というものがありません。
日本人は神社にもお寺にもお参りに行けば、教会で結婚式を挙げたりクリスマスを祝ったりもします。
また、宗教系の学校を除けば、学校の授業の中に宗教教育もありません。
日本人の道徳や常識は、主に家庭の中で、そして学校や地域社会の中で、目上の人たちから「言葉」で教わるものだけで作られてきたものです。
しかし、核家族化が進み、共稼ぎが増え、教師の威厳は失われつつあり、「和」よりも「個」を重んじるようになった社会の中で、大人との接点は希薄になってきています。
そして武士道という教えも失われつつあります。
教わる機会も、その教えも、なくなりつつある…
私たちが今の社会に不安や疑念を抱き、大きく夢や希望を抱くことができないのは、経済のせいでも時代のせいでもなく、私たち自身のしっかりとした「核」がなくなってきているからかもしれません。