武士道とは何か?
この問いに関する正しい答えは存在しません。
武士道はサムライ達の間で、長い時間をかけて、どこかにまとめて書き記されたりすることもなく、口頭だけで伝わっていったもののため、これ!という決まった形がなく、時代背景や人によって解釈が違ったりします。
それってつまり、自分の解釈で自由に発想すれば良い!とも言える…
という考えから、まず私自身の解釈で説明しますと・・・
武士道とは、元々特権階級であるサムライ達の倫理観や道徳観、行動の基準の土台となる思想や考え方が、そのまま日本人全体としての一般常識的な基準となったもの
と考えています。
これでもまだ分かりにくいので更に噛み砕くと…
元々サムライ達の間で広まっていった「教え」が、いつしか一般庶民の間にも広がり、日本人全体の共通認識となったもの
という解釈です。
それは今の私達にもしっかり受け継がれていて、日本人の「家庭内教育(躾)」は、今でも武士道の「教え」が基準となっています。
- 嘘をついてはいけません。
- 弱い者に優しくしなさい。
- 人前で恥ずかしい事をしてはいけません。
等々、これらの教えは武士道からきていますし、お辞儀の仕方や食事の時の礼儀作法などはほぼそのままの武士道です。
私達は知らず知らず、武士道を基準として判断や行動をしてる、と考えるとより興味が湧いてきませんか?
では武士道がどうやって私達にまで広まっていったのか、私なりの解釈を基本として、すごく簡単にではありますが、武士道の歴史と概要を解説したいと思います。
名もなき武士道
そもそも武士道という言葉が一般的に認識されるようになったのは、明治の頃に書かれた新渡戸稲造の著書『武士道』(以下「新渡戸武士道」)からと言われています。
この影響力は極めて大きく、今私たちが武士道として認識しているものは、この『新渡戸武士道』の解釈に基づいたものと言っても過言ではないでしょう。
武士道って何かを考える時に、義とか勇とか・・・といういわゆる「武士道の徳目」が浮かぶとしたら、この『新渡戸武士道』が元です。
この著書の中で、武士道という名がつけられただけでなく、義、勇、仁、礼・・・というように、考え方をジャンル分けして定義付けしました。
ただ、この本は武士道のテキストとして書かれたものではなく、世界中に向けて、日本人とはどういう民族かを紹介するために全編英語で書かれたもので、世界中でベストセラーとなり、その日本語訳版として日本にもあるという事になります。
そのせいもあってか、言葉の言い回しが非常に難解です。
言葉自体の古さか、翻訳による限界かは分かりませんが、「武士道を知りたい!」と思って、最初にこの本を読んでしまうと「さっぱり分からん!」といきなりつまづく可能性が高いかもしれません。
この本のできる明治という時代までの長い間、武士道には明確な名前がなく、何となく武士道と呼ばれたり、時に武道と呼ばれたりという曖昧な状態で受け継がれてきたということになります。
武士道の広がり
武士道がいつから始まったのかも当然分かりませんが、元々は荘園の用心棒的存在が武士の始まりとされ、腕の立つ連中をまとめるにあたり、何かしらのルール的な物が必要となったことが起源とも言われています。
誰かに仕えるというより、報酬がもらえるから働くという「ご恩と奉公」の関係性による、ボディガード契約のような状態のため、忠義心のような感覚は極めて薄く、まずは自分自身の力を付ける事が最優先と考えられていました。
時代とともに武士が力を持ち「お家」として組織化が進んでくと、それぞれの家の「家訓」のような存在として武士道の形が作られて行く事になります。
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」
藤堂高虎
藤堂家の家訓のようなものとして伝わっていますが、戦国期の武将でも誰かのためよりも自己の成長に重きを置いていた事が分かります。
その自己の成長が「お家のために」や「お国のために」となって、忠義が強調されてくるようになります。
これは、戦の少なくなった時代に、報酬によってモチベーションを上げるという事が難しくなってきたことから、幕府や朝廷側の思惑により忠義心を煽った部分もあったのではないかという見方もあるようです。
一般庶民は、武士の活躍を講談などを通じて知るようになり、憧れをいだくようになっていきます。
「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」
一休宗純
ご存じ「一休さん」の言葉で、花ならば桜、人ならば武士、柱なら桧・・・というように、それぞれのジャンルの中の一番を指し示す言葉です。
一休は室町時代の人ですから、「人ならば武士のようでありたい」という憧れは、その頃にはあったようですが、当然の事ながら武士とは特権階級、一般庶民がいきなり武士になる事は不可能です。
しかし、その憧れから武士の生き方を真似するようになっていきます。
それがやがて「武家の家訓」のような存在から「家庭での躾け」や「日本人共通の一般常識」として、何のテキストもないまま、今の私たちにまで受け継がれていく事になります。
一般庶民が特権階級の生き方を目指す、それが世界一民度が高いと言われる日本人としての生き方の土台にあるものです。
武士道という洗脳!?
武士道の教えは今も間違いなく受け継がれているのに、これが武士道である!と認識している人はほぼいません。
それはやはり、「武士道は危険思想」として、敬遠する人も多くいるから…ではないかなと考えています。
日本人に、これといった宗教の教えを必要とさせないほどの強力な力を武士道は持っています。
特攻精神の土台ともなった軍国主義は、お国のために死ぬことが忠義に厚く名誉な事だと信じ込ませる、武士道を使った洗脳教育でした。
洗脳してやれ!という明確な意志があったのか、それともその当事者自身も本気でそうあるべきと信じたからこそ、結果的に洗脳のような状態になっていっただけなのか、私には分かりません。
いずれにしても、太平洋戦争において、武士道を胸に特攻玉砕、自決をした人達がいた!という事実をもって、「武士道は危険!」と考える人がたくさんいるのは当然のことでしょう。
ここを境として、武士道は表舞台から消えてしまったように感じます。
真実は分かりませんが、とても残念でなりません。
武士道の基本的精神
表舞台からは消えてしまっても、家庭内教育においては、今でも武士道がその中心にある事は変わっていません。
「武士道は危険!」と考えている人の家庭でも、まず間違いなく武士道で躾をしているはずです。
それだけ武士道が優れてる!というよりも、特定の宗教を持たない日本人には、武士道の他に、自分たちの倫理や道徳を形成したり、人生に迷った時の教訓となるような教えが存在しないからでしょう。
この特定の宗教を持たないことが、武士道を発展させる要因になり、武士道が発展することで、また特定の宗教にこだわらなくなる、という相互の関係があったように感じます。
神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、
山岡鉄舟
神儒仏三道融和の道念にして、
中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。
鉄太郎これを名付けて武士道と云ふ。
幕末の剣豪山岡鉄舟の言葉ですが、武士道にも宗教的要素はあるが、神道、儒教、仏教など、色んなものが混じった考え方だということ、そしてここでもやはり、「武人達の間で広まってきたもの」というような曖昧な認識が伺えます。
ちなみに『武士道』を書いた新渡戸稲造はクリスチャンでしたから、もはやなんでもありですね。
このある意味での懐の深さは、あらゆるものに神様が宿るという「八百万(やおよろず)」の神道の影響が強いように感じます。
現代の日本でも、神社も寺も参ればクリスマスどころかハロウィンまで祝うという、いわゆる良いとこ取り気質は健在です。
日本人は他所から取り入れた物を自分たち流にアレンジして発展させていく…ということが得意なことから「猿真似上手」なんて言われていた時代もありますが、武士道はまさに、様々な教えを良いとこ取りして発展させてきたものだと思います。
ということは、今の時代には今の時代なりの武士道がある!とも言えます。
まとめ
今の時代ならどんな武士道になるかな?
過去の武士道からただ学ぶだけではなく、今の時代なりの活かし方を考えてみるのも面白いかもしれない。
それは必ずしも「武士道」と呼ばれる必要はなく、「武士道を元にした新たな日本人の在り方」として、誰かの何かしらの、生きるためのヒントくらいにはなるかも…!?
「何の教えかも知らない誰かの教え」を、疑いもなく守ってきたのが私たち日本人です。
それが「武士道である!」と知る事は、私たちの中に一つの芯のようなものを作ることになるのでは?
そんなことを考えながら、このブログを立ち上げました。
武士道に興味が出てきた!
という方がもしいれば、是非一緒に勉強しませんか?